新作能「吉祥天」謡奉納式 in 浄瑠璃寺

 

「吉祥天龍神図」作品の吉祥天のモデルとなった、木造の吉祥天立像がおわします、浄瑠璃寺(別名:九体寺)にて、新作能の謡奉納を上げることになりました 

時:2018年4月30日(月) 午後六時~ 

 

暮れなずむ春の宵、夕日とともに祈念の詰まった言霊の響きに耳を化されては如何でしょうか

 

※ 既に本堂内の御席は満席となりました

30日当日の月例は満月です!

明るい月明かりの元、特別に開け放たれた蔀戸から零れる仏さま

池を挟んだ本堂の対岸からの眺めは、水面に映る仏さまの御顔と共にあることでしょう。

 

御帰りの頃は、すっかり陽が落ちている模様です

御足もとが見えずらい様子、懐中電灯をお持ち頂きますよう お願いします

 

 

 

 「吉祥天龍神図」版画

 

この度、「吉祥天龍神図」版画をサイズを縮小したリニューアル版として刊行することにしました


詳しくは こちらをご覧くださいませ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新作能「吉祥天」 謡お披露目会

左より― 宇髙通成氏、宇髙徳成(ノリシゲ)氏、ディエゴ氏
左より― 宇髙通成氏、宇髙徳成(ノリシゲ)氏、ディエゴ氏

20017年12月27日、金剛流能楽師・宇髙 通成(ミチシゲ)氏の岩倉稽古舞台(京都市左京区)にて、新作能「吉祥天」の詞章完成を記念したお披露目の謡の発表会が催されました。

かねてから「吉祥天」の演能実現活動を担っている吉祥天ノ会のメンバー、宇髙氏のお弟子さんや関係者を招いての内和の会でしたが、熱気に満ちた中、力強い謡に寒さも忘れるような感慨を覚えました。言霊の力を再認識!といった感覚でした。
今後は「吉祥天」の所縁の各地で謡奉納も上げる予定です。
このような活動をしながら、東北へ、演能へと繋げて行きたいと考えています。

※ 詞章の「間語り」の箇所は未だ出来ていません。詞章全体につきましても、未だ成長段階 ー 更に磨きをかけていく感じとなります。 次にお耳にされる時は、また違っているかも知れません。

 


能絵「吉祥天」

 

『未だ完成していない新作能「吉祥天」ですが、舞姿を

想像して能絵作品の「吉祥天」を描き上げたところです。』

 

―  絵師・浅山 澄夫 (2014年 弥生)


「吉祥天」は浅山が亡くなる10ヶ月程前に描きあげた作品です。未だ見ぬ演能の舞姿を夢見て、たいそう楽しそうに描いていました。とても気が乗っていて、2作を連作したほどです。2作の相違点は、浜の波打ち際の位置です。

能装束は、こちらも乗って2点続けて描いた「箱崎」の神宮皇后のものを用いています。当初はデザインすると云っておりましたが、そこまで時間をかけるのを惜しんだ様子です。何処かに逸る気持ちがあったのかも知れません。

東日本大震災、とりわけ津波害は彼にとっては衝撃的な惨事で、「吉祥天龍神図」を描いてそれを基に新作能を作ることへとつながる働きは、自分自身の心の救いを求めていたからなのかも知れません。

「吉祥天」の詞章を書上げた後は、なんとか演能実現へと努力して参りました。そしてその事こそが遺言となりました。亡くなった後は、生前に親交のありました能楽師・宇高通成氏にご尽力頂きまして、浅山が遺した詞章を基に実際の舞台で用いる詞章ー謡曲へと作りあげて頂きました。

この程、謡の節付けを終える事ができ、能としての形が整ってきました。浅山が望んだ被災5回忌には間に合いませんでした。7回忌にも難しいと言えるでしょう。何時になるか解りませんが、何時の日か一本松の下で吉祥天が舞われる姿を皆様にお目にかけたいと私も望んでいます。  ―  浅山 圭子  (2017年 文月)

吉祥天 - 未完の能
吉祥天 - 未完の能


新作能「吉祥天」について


東日本大震災をきっかけとして描いた「吉祥天龍神図」の作品、津波の害にも負けず残った一本の松の木、震災の前年に清水寺へ奉納した「田村」(能絵)・・・ そうした出来事から物語が生れました


吉祥天龍神図 kissyoutenryujinzu
吉祥天龍神図 kissyoutenryujinzu

― 物語のあらすじ ー

慶長16年10月28日 (1611年12月2日)、陸奥ノ国・三陸地方で(後に[慶長三陸地震]と呼ばれる)大地震に伴う大津波が起こり、多数の死者を含む多くの被災者を出しました。 

翌年、都の清水寺では、例年通り開山忌(5月23日)に坂上田村麻呂公の供養が厳粛に執り行われました。 寺で修行中の僧侶は、陸奥ノ国から参拝に来ていた人から、陸奥三陸地方で起きた大惨事のことを聞き、心を痛めます。

田村麻呂公は蝦夷平定に赴いたことから陸奥ノ国と所縁が深く、普段は風光明美な景色の三陸の地も、公自らが建立した達谷の窟(たっこくのいわや=毘沙門堂)と離れていません。僧は大災害の犠牲者の鎮魂と、一日も早い復興を祈願する為に陸奥へ赴く決意を固めます。そして長旅の末に、陸奥ノ国・達谷の窟にたどり着きました。 

田村麻呂公は蝦夷平定には観音のお導きと毘沙門天のご加護があったとして、清水寺に模した毘沙門堂を建立し、洛北の鞍馬寺より観請した108体の毘沙門天像を祀りました。僧が被災者の鎮魂と復興を祈祷していると、堂内の毘沙門天像から「浜辺に残った一本の松の木に参れ」という声が聞こえてきました。 不思議に思った僧が村民に松の木の事を尋ねると、三陸の高田の浜まで案内されます。 そして荒涼とした中に、一本の松の木だけが残っている様を見届けました。松の近くへ寄ってみますと、品のある清楚な乙女が周りを丁寧に掃き清めています。

僧が「なぜ、この松の木を清めておられるのか」と尋ねると、乙女は「この浜辺は美しい松原で覆われ、民は豊かな海の幸に恵まれながら暮らしておりました。 大津波では松原のお陰で多くの民が救われましたが、 幾度も寄せる波に松の木はさらわれてしまいました。 不思議にもたった一本、この松だけが耐えて残りました。 これは御仏のご加護に違いないと思い、大切にしているのです。」と答えます。 そして乙女は「経文を唱えて回向して頂ければ、今宵、奇瑞が見られるでしょう。」と僧に言い残して何処かへ消え失せてしまいました。

やがて陽が沈み、月明かりに照らされた松の木の下で僧が厳かに経を唱えていると、俄かに海面が黄金色に輝き、海中から鱗が桃色に輝く龍神が現われて空中に渦を巻き始めました。 暫くすると、再び泡立った波間から、眩(まばゆ)いばかりに光り輝く吉祥天が現われました。 吉祥天は優雅な舞を舞って見せ、除災・招福・豊穣の与願印を示しました。 そして左手に携えていた金色に輝く如意宝珠を海へ捧げ、御仏の加護を約束しました。 やがて夜明けの陽の輝きが増しだすと、吉祥天と龍神は波間へ消えて行きました。

僧はこの奇瑞に感涙し、陸奥の地の一日も早い復興を願って一層声高らかに経を唱えるのでした。

 創作 : 浅山 澄夫

 

  • 清水寺 : 仏教に帰依した田村麻呂が旦那となり創建した千手観音を祀る寺
  • 坂上田村麻呂 : 初代征夷大将軍、朝廷の命で蝦夷征伐に尽力する
  • 毘沙門天 : 千手観音の守護神(北方の守護)、武神
  • 吉祥天 : 毘沙門天の妃、海の泡から生れたとされる
  • 与願 : 願った事柄を与える(聞きとどける)
  • 如意宝珠 : 塩土ノ翁から与えられた(物事を意のままにできる)宝珠 (塩土ノ翁は陸奥一の宮、塩釜神社のご祭神)
  • 龍神 : 意富加牟豆美命(大神実命/おおかむづみのみこと) 人類救済の働き

― あとがき ー

新作能の時代設定は慶長三陸地震(江戸時代初期)1611年にしました。

この度(2011年)の東日本大震災はそれから400年後に起り、田村麻呂公の没後から数えると1200年後になります。 

私事になりますが、2010年の晩秋に、来たる千二百年忌(2011年)を記念して清水寺へ能絵「田村」をお納めしました。

その際に、毎年開山忌(田村麻呂公の命日)には東北からたくさんの方がお見えになると伺いました。

京都の人よりも、東北の人々の方が田村麻呂公を身近に感じておられる様子です。

能楽の「田村」は公を主人公に、清水寺の縁起と生前の公の勇姿を物語る内容です。 

能絵「田村」は、私が京都へ拠点を移した際に描いた作品でした。 

私自身、不思議な縁を感じています。

 

この「吉祥天龍神図」の作品を基にして、版画を制作して義援金を作る為の頒布会を行いました。(2011年と2013年)

2017年現在、アーカイバル版画「吉祥天龍神図」は、絵師・浅山澄夫のサイン入り作品の在庫が無くなりました故、一旦、販売を休止致しました。 2018年4月、絵のサイズを縮小したリニューアル版として新たに刊行しています