賀 茂  kamo

別雷神  wakeikaduchinokami
別雷神  wakeikaduchinokami

<謡曲の解説>

播州・室(兵庫県揖保郡御津町室津)の明神に仕える神職は、都の賀茂明神と室明神とは御一体であるというのを知り、上洛して清き川の源・賀茂社に参詣しました。

ホトトギスの声も涼しい夕暮れ時、糺(タダス)ノ森・御手洗(ミタラシ)の瀬見ノ小川の川辺には、新しい壇が築かれていて、白木綿(しらゆふ)に白羽の矢が立ててあります。 不審に思った神職は、丁度水を汲みに来た二人の里女に尋ねました。

里女は「昔、秦氏女(ハタノウジニョ)が朝な夕なにこの川の水を汲んで神前に手向けていました。 ある時、川上から流れてきた白羽の矢がその娘の水桶に留まりました。 娘は矢を家に持ち帰り、軒に挿していたところ、懐妊して男児を産みました。 その児は別雷神(ワケイカズチノカミ)であり、娘と矢で示された神と共に賀茂三所(ミトコロ)ノ神と云うのです。」と、賀茂三社の縁起を語りました。 

里女は清き水を汲みながら、この川に因んだ和歌を引いて、その清流の趣きを語り、そして自分がその神であるとほのめかして木綿四手(ユウシデ・白木綿)に紛れて消えてしまいました。

末社の神が現れて賀茂明神の謂れを語ると、天女の御姿の御祖神(ミオヤノシン)が出現して御祖の神徳と曇らぬ御代を讃え、舞いながら袖を川面に浸して涼み取りました。

すると山河草木が動揺し、別雷神が現れました。

風雲急を告げ、稲妻が光り、雷(イカヅチ)を踏み轟かして後の五穀豊穣を祝し、国土を守護する御神徳を説くと、御祖神は糺ノ森へ、別雷神は虚空へと飛び去って行きました。

 

御祖ノ神 mioyanoshin
御祖ノ神 mioyanoshin

賀茂社・・ 賀茂別雷神社(京都市北区上賀茂)

                                          祭神:別雷神

       賀茂御祖神社(京都市左京区下鴨)

                                          祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)、

                           賀茂建角身命

                                                    (かものかけつぬみのみこと)

       糺ノ森の中に鎮座し、瀬見の小川が流れている

  白木綿・木綿四手 ・・ 白い木綿製の御幣、幣帛

 賀茂三所ノ神 ・・ 上賀茂の別雷命、下鴨の玉依姫命、

                 松尾(大社)の大山咋命(おおやまくいのみこと)

<作品によせて>

 

この作品(賀茂-別雷神)は弐千年の二月に制作したものです。

別雷ノ神の背景には大胆な雲金(金箔)を配し、約束された五穀豊穣をもたらす穀雨は螺鈿細工に使われる青蝶貝を用いて表現してみました。(写真では判り難いと思いますが、白っぽく見える雫状の筋の部分) 

金箔もそうですが、光の当たり方で色々な表情を表してくれています。

昔から夏場に雷のよく鳴る年は稲穂の実りが多い、豊穣になると言われてきました。 

これは、雷がおこることにより、その電気の力によって空気中で科学反応が引き起こされ、植物の成長に欠かせない窒素分が多く発生し、稲が良く育つということから来ています。 

もちろん、昔の人達 はこのような科学的な知識を持ち合わせてはいなかったでしょうが、雷のことを稲光と呼ぶなど、自然界の摂理(働き)を詳しく観察して道理を理解していた事 に違いないことだと云えるでしょう。 今日の私達と比べ、遙かに自然を身近なものとして捉えていた事が、この端緒でも判るように感じます。 

日本特有の‘八百万の神’という、アニミズムもこのような自然界の道理に対する畏怖の念から興ったものではないでしょうか。

この作品を描き上げた後、一足早い春を楽しもうと、梅花見物に播磨方面へ出かけました。

龍野から高速道を降りて海辺へと、道を辿ったのですが(この辺りは初めて通る処)、何かしら古びた、古名というような名称や古宮が多いことに驚きました。 まるで奈良のようでした。 

目的としていた梅林は駐車料金が高くて諦め、ならば、ここまで来たのだから海を見ようと

車を走らせ、室津を訪ねることにしました。 (実は釘煮用の‘イカナゴ’を仕入れることも目的でした。)

室津の港の突端に賀茂神社がありました。 

ご祭神は別雷神。 

なお、由緒書きによりますと、この室津の港を開いたのは賀茂建角身命(神武天皇の東征の折)とのことでした。神功皇后の三韓征伐の時にもこの津(=港)に寄られたとのことです。 

平家が西国を治めていた頃に社殿は大きく造営されたようでした。 

瀬戸内の津として要 所に当り、朝鮮からの通信士の寄航所として、貿易の中継地として、近代に入って蒸気船が和船に取って代わるまで、港町として隆盛を極めた名残が社の彫り物 等、其処かしこに感じられました。 しかし、今は昔と朽ちたままになっている箇所も、残念ながら同時に見て取れるのでした。

この後、この謡曲の神職ではありませんが、どうしても気になり、数日後には京都の賀茂社へ詣でることにしました。 

京都に住んで居たこ とはありましたが、(だからこそ)わざわざちゃんと参詣するということは稀で、この両神社も訪ねたことはあっても、由緒等、詳しい事については記憶が薄い ものでした。 詣でてみて、一番驚いたのは、鴨長明の出自がこの下鴨神社にあったことです。(摂社・河合神社) 鴨長明は私の人生に大きな影響を与えまし た。 彼の著書「方丈記」と出合ったのは、私が高校二年生の時でした。 

私が今日のような、どこにも属すこと無く、独立して自分の行く道を模索するような生き方を選択した、一つの切っ掛となった出会いです。 (名前が'鴨'ですから、注意すればすぐ分かるはず?)

さて、賀茂神社の縁起は、神の化身である'矢'を持ち帰った娘が懐妊し、御子・別雷命が誕生する神話が基になっています。 

謡曲「賀茂」の物語 では「本朝月令(ホンチョウガツリョウ)」の「秦氏本系帳」を引用しているそうです。 そこでは、‘秦氏の娘に白羽の矢’となっていますが、「山城國風土 記」では‘玉依姫命に丹塗り(ニヌリ、丹=朱色)の矢’と伝えられています。 矢に化身していた神は松尾大社の御祭神・大山咋神ですが、古事記によると、 鳴鏑(ナルカブラ)という空を鳴りながら飛行する矢を用いる神様です。 松尾大社は大宝元年(701年)に秦 忌寸都理(ハタノイミキトリ)が社殿を造営したと、記述に見えますが、祭祀の遺跡が発見されているところから、それ以前から先住の人々による祭祀の場で あったことが伺えます。 

また、下鴨神社の御祭神・賀茂建角身命は「山城國風土記」によりますと、神倭石余比古(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)の東征の際にヤタ烏となって先導し、この時の功績により‘賀茂’の名を賜ったようです。 

(日向國(九州)に天降り、まず大和の葛木山に宿り→山城國の(岡田)賀茂→山城河を上って葛野河と賀茂河の合流点・『狭く小さいが石川の清流である』(石川の瀬見の小川と名付ける)→さらに久我國(葛野乙訓)に鎮まり、この時より‘賀茂’と云うようになる)

‘賀茂’を辿っていきますと、「古記」(8世紀)の記述では山城鴨は天津神(天孫系)、葛木鴨は国津神(地祇→先住民勢力)というように同じ‘カモ’であっても区別がされています。 また、迦毛大御神という表記の神様もいます。

「古事記」には、大物主神(オオモノヌシノカミ、大三輪神社の祭神、地祇)が丹塗の矢に化身して、見初めた姫を娶る説話があります。 

こちらでは、先の二話のような水桶に矢が刺さるというようなものではなく、娘が厠に入った隙を狙って、そのホト(秘所)に直接矢を当てるというもので、今日では考えられない大胆さ、古代人のおおらかな世界が感じられます。

大和朝廷による中央 集権国家が樹立するまでは、各地に先住の民が暮らし、其々の祖先神を祀っていたことでしょう。朝廷による統一以後、天孫系(朝廷)は地祇(先住民)の祭祀 をも含めて、その民族の特性等を上手に取り入れて混じることにより、統一支配を円滑に行ったのではないでしょうか。

アジア大陸ではこのように、様々な宗教や風俗の融合の跡が見られます。 これは、一神教では考えられないことですが、反発・争いを避け、人々が平和に生活を営む為の素敵な知恵だと、私は想っています。

謡曲「賀茂」では、鴨の民と秦の民との融合が謳われています。 

謡いの中では、‘賀茂’のルーツを辿るさまを、清流(清き御霊)の源を辿ることに置き換えて、清い水の流れを詠んだ和歌をふんだんに取り入れた美しい詩になっています。

京都・賀茂社を詣でてのち、「御祖ノ神」の絵を描きました。        (2005年1月)

 

追記

別雷神ノ神を描いた時、住まいは丹波でした。 

2006年に京都に転居したのですが、落ち着いた先の直ぐ近くに久我神社があります。

この社は、「大宮通り」の大宮の謂れとなっている神社です。 

なんとそこは、都の造営が完了するまでの間、賀茂氏がその氏神を祀っていた神社です。 

造営完了後、神社も立派に用意され、それが今の上賀茂神社です。 

久我神社は親神さまとも呼ばれています。

よくよく縁があるようです。                                          ↑戻る