(この作品シリーズは、既に私の手元に無いものが殆どです このページにて、ゆっくりとご覧下さいませ)
この作品は1977年から1981年の4年間の間に約50点のシリーズ制作をしたものの一部です。
白い紙の上に透明水彩絵具を用いて、さながら点描画のように、微細な面積を少しづつ塗り重ねて描いています。
色彩の白っぽく見える部分は紙本来の色を利用しています。
“ 幻視 (vision) ”とあるように、これは私が見て来た世界を描いたものです。
このときの私はこの世界にありました — どう云うことかと言いますと、私の精神が宇宙へ飛び出し(テレポテーションして)、そして描かせたものなのです。
「宇宙」というものを初めて知ったのは、父から贈られた絵本でした。
就学年時であったと思われます。 とても美しく、興味惹かれる挿絵に「コレハ ナンダロウ」と、胸ときめかせて見入ったことを今でもはっきり覚えています。「知ること」の楽しさを芽生えさせてくれた本でもありました。
やがて成長した私の好奇心は哲学へと向かい、そして「絵描き」というライフ・ワークを選ぶことに繋がりました。
私の父は私が成人するのを待たずに亡くなりました。
父と大人の会話ができなかった事を残念に想います。
この作品シリーズは 「氷塊幻想作品集」 とタイトルを付け、1981年に発表しました。
― 亡き父に捧げます。
この 「氷塊幻想作品集」シリーズを制作した背景には ‘禅’ があります。
その当時、私は禅を学んでいました。
私の家の前に寺が有りましたが、若い僧が赴任して来たことに伴って有志を募り、荒れ寺然としていた境内の掃除と整理を手伝ったことがきっかけでした。
西洋哲学については青春時代に著作を読み漁り、学友達と喧々諤々にやり合ったものでした。
初めて東洋哲学に触れたのは、17歳の時に出逢った「方丈記」、東洋思想に触れるのはその時以来で、本格的に取り組んだのはこれが初めてでした。
ちなみにこの寺は、黄檗宗萬福寺の開祖・隠元禅師が宇治へ行かれる前に開山され、しばらく滞在されていた所だと伺っています。
この周辺は今では見る影は全くありませんが、往時は新屋坐天照國照御靈神社の鎮守ノ森を貫く参道前に当たり、巨木がそびえた神さびた場所だったようです。 (昔に伐採されたであろう切り株が出土しています)
私達は休日毎に作務をし、座禅の会を催しました。
私にとっての「禅の世界」= 禅の宇宙観の表現の一つがこの氷の世界なのです。
シリーズ作品の制作に入る前、私の ‘Vision’ をより明確化(視覚化)させるために、立体の作品を制作しました。
白いスチロールを用いて結晶体を形造り、小さな箱(一つの小宇宙)の中に収め、豆電球を使ってライティングし、箱に開けた小窓から中の世界を覗くかのようにして、眺めるられるようにしました。
それはとても神秘的な、静寂世界でした。
このような作業を導入として、私の精神はこの世界に泳ぎだしました。
私は ‘氷(結晶)’ についての研究もしました。
北欧(北極圏)、厳冬の北海道を旅したこともあり、また遡っては幼年期に双ヶ丘で水晶の採取をしていました。 制作していた頃、低温学に関するある本との出合いがありました。本の中には北海道大・若濱教授(低温学)の論文が紹介されていました。私はその内容に感動し、すぐに出版社宛にファン・レターを送りました。
これが若濱先生との交流のきっかけとなりました。
先生と初めてお出会いしたのは、私のアトリエ。
低温学の国際会議が京都で開かれる事になり、帰路、寄って下さったのでした。急きょ先生による低温学の講義を我が家で行う事になり、知人・友人を集めました。30人程を前にして、学会と同じ内容(氷河やオーロラ)のスライド上映会となりました。それはとても贅沢な一時でした。
先生に作品を観て頂き、「科学も芸術もロマンを追求する心は同じ」と互いを確かめ合って分かれました。
また、先生は私の研究ぶりに「うちの学生より、よく学んでますね」と感心され、アラスカ大の氷河研究所を
ご紹介頂きましたが、こちらの方は未だ行けずにいます。
1989年・秋の能絵作品展開催中の事です。
偶々立ち寄った書店にて科学雑誌ニュートンを手にしたところ、“フラクタル・ギャラリー”という特集記事が
掲載されているのを見つけ、大変驚きました。
フラクタルというの は一つの数学理論 ( 創始者=米国・IBMワトソン研究所のB・マンデルブロート氏 ) の
ことで ( ここでは説明を避けますが )、掲載記事ではこの理論をコン ピューター・グラフィックスに用いて
幾何学の展開を続けたところ、
私が描いたこのシリーズ作品そっくりの画像が出来上がっていたという記事だったのです。
禅を学んでいた時、その指導 ( 教務 ) には、九州小倉 ( 円通寺 ) の林 文照老師 ( 当時、妙心寺教官兼務 ) が担当され、私も在家ながら公案 ( 禅問答 ) を受けました。ほんの入り口程度のものでしたが、とても深い経験を得ました。老師へは、禅の精神をご教授頂いたお礼に作品を寄贈しました。
すると、その絵に合わせてお寺の一室を改装されたそうです。
後日、「お蔭でとても良い庵が結べました」と、お供の雲水達を引き連れて我がアトリエまでお礼にいらっしゃったのですが、この時ほど恐縮したことはありません。
その後、小倉の老師の元へ伺う予定を立てたこともありましたが、台風で渡航不能になるなどして、結局会えず終いでした。
ところが数年前、偶然見ていたNHKテレビに萬福寺がでていました。
テーマは “御茶” でしたが、大な法要の模様が映し出されて久しぶりに老師のお姿を拝見する事ができました。
その法要は4百年祭に当たる、開山祥忌であったと思います。
かつての師は管長 ( 第59代 ) を務められていました。
この作品「水虹」は或る人に貸していたのですが、展示していた所が火事になり、文字通りこの作品は昇華してしまいました。
かろうじて、写真だけは残りました。
私はこの作品を最後に氷塊幻想シリーズの制作を終えました。
氷の結晶世界がもたらす神秘性、自在性は絵画表現として、私の精神性の追求と成りました。
私の芸術活動の上で、このシリーズ制作は核と成り、やがて、能絵シリーズ制作に変遷して行きました。