貝合わせ

貝合わせ
貝合わせ

kaiawase

「貝合わせ」は文字通り、並べた多数の貝殻の中から一対の貝を発見する素朴な遊びです。 

使われる貝は大蛤で、貝の『 対になっている貝のみ合う ( 閉じる ) 』という性質を用いたものです。

平安時代の王朝文化の発展と共に、この遊び道具も華やかになり、貝の内側には蒔絵技法による絵が描かれ、宮中や貴族の女性達の間で親しまれました。  

当時一世を風靡していた、源氏物語から題材を得た絵が主流になっていました。 物語の各場面を一対の貝に描き、トランプ遊びの「神経衰弱」のようにして遊んでいました。 

源氏物語は教養として身に付けておくべき文学でしたから、遊びながら学習するというような要素も合わせ持っていたようです。

 

蒔絵技術が全盛を極めた桃山時代~江戸初期にかけては、当時の権力者・有力大名家の姫達の蒔絵婚礼調度品の一つとして、「貝合わせ」とそれを入れる「貝桶」が含まれるようになりました。 ( 雛道具として揃えられていることもあります )

『 対の貝のみ合う 』ということから、夫婦和合( 女性の貞節を象徴 )という意味合いに重きがおかれました。 

 

江戸時代に入ると、貝桶の寸法や絵柄( 源氏物語や鶴亀・松竹など古典的な吉祥柄が描かれました )などの様式も定められ、武家の間では婚儀の証のような存在になり、新婦側から「貝桶」が無事に嫁ぎ先へ運び入れられることが、実際の婚礼に先立つ重要な儀式として扱われていました。

このような背景から、「貝桶」自体が吉祥柄として尊ばれ、袱紗や着物の柄にも用いられていました。

 

現代では、この「貝合わせ」に使われる大蛤も、海洋汚染などの影響を受けて、大きさは昔のものに比べると小ぶりとなり、また採れる数も少なくなってきています。

(「貝合わせ」に使う大蛤は、外国産のものは形が異なる為に、正式なものとしては使われません。出来るだけ丸い形のものが珍重されています。)  

この度は、この貝の下処理(金箔加工等)のできる職工の方との出会いがあって、初めて作品化を企画してみました。  

通常、貝の表面は自然の状態のままです。  

 

私は能絵を描いてみました。

 

 


東方朔

toubousaku
toubousaku

toubousaku

漢の武帝が七夕の星祭を執り行っていますと、一人の老人が参内してきました。 

老人は「この頃、御殿の上を青鳥が飛び回っていますが、これは西王母が三千年に一度花を咲かせる桃実を捧げる瑞相です。その実を召し上がるならご寿命は久しくあるでしょう。」と告げて、消え失せていきました。 

しばらくして仙人の東方朔が参内し、女神・西王母が天降り、武帝に桃実を奉ると、二人で舞を舞って祝福し、 そして夕日の傾く頃に去って行きました。                

  • 武帝  ・・・ 即位・紀元前87年
  • 東方朔 ・・・ 西王母の王宮の庭にあるという伝説「三千年に一度花を咲かせ、さらに三千年を経て実を結ぶ 桃の木があり、その実を食べると  不老不死になれる」の桃を三つ盗み食いした、と言い伝えられています

和布刈 

mekari
mekari

mekari

門司・早鞆(はやとも)明神の和布刈神事は毎年師走・晦日の寅ノ刻にとり行われています。 その時刻になると龍神の守護によって、浜の潮が引き、平らになった海の中へ神官が入り、神前に供えるための和布 ( わかめ ) を刈り取ります。 

その神祭りの日、神官がまさ神事に望もうとしていると、神前に捧げ物をしている人影が見えました。  神官が尋ねると、「海人少女と漁翁である」と応え、続いて 「昔、彦火火出見命 ( ひこほほでみのみこと ) が豊玉姫のお産を垣間見たことから、海と陸との通い道が断たれましたが、早鞆の神事の日は、神慮によって海蔵の宝も意のままになります」 と話し、二人は 「龍女( 天津乙女 )と龍神である」と言い残し、海女は雲に乗り漁翁は波間へと姿を消しました。

和布刈神事が始まると、松風の音と共に辺りに妙音が響きわたり、龍女が現れて天女の舞を舞いました。 海からは龍神が現れて、海底をうがちて潮を退け、海の道を開けました。神官は松明( たいまつ )を灯し、和布を鎌で刈ってもどると、暫らくして潮が満ちて元の荒海となり、龍神は龍宮へと去って行きました。

 


杜若

kakitsubata
kakitsubata

kakitsubata

諸国一見の僧侶が都から東国行脚へと志す途中、三河國(愛知県)にやって来ました。

美しく咲き誇る沢辺の杜若の花に見とれていますと、一人の里女が現れて

「ここは八橋という古歌にも詠まれた名所です。昔、在原業平(ありわらのなりひら)は東下りの際に此処で休み、か・き・つ・ば・た の五文字を各句の頭において

らころも   つつなれにし   ましあれば 

るばるきぬる   びをしぞおもふ           

という歌を詠まれたのです。」と語りました。

そして僧侶を自分の庵へと案内し、泊まっていくよう勧めました。 

やがて里女は輝くばかりの装束に冠を着けて現れ、「この装束こそ歌に詠まれた唐衣(からころも)、高子(たかいこ)の御衣、冠は業平のものです。」 と言いました。 驚いた僧が素性を尋ねますと、「私は杜若の精です。」と答え、「業平は衆生済度の為にこの世に現れた歌舞の菩薩の化身です。 その詠歌は皆、仏の妙文です。 詠まれた草木までも成仏できるのです。」 と話しました。  

そして、舞を舞いながら伊勢物語や業平の恋の話を物語り、陰陽ノ神とは業平の事であると告げ、杜若の精は草木成仏の御法(みのり)を得て消えて行きました。

  • 在原 業平 ・・・ 平安歌人
  • 高 子  ・・・  二条帝の后
  • 陰 陽  ・・・  男女和合 (この謡においては)