箱 崎  hakozaki

<謡曲の解説>

醍醐天皇に仕える壬生 忠岑は、九州箱崎の八幡神社へ詣でる旅に出ました。

秋風に吹かれ、明石から播磨潟を抜けて筑紫へとたどり着くと、箱崎の浦は神風のような風に松の葉がなびく、時雨の夕べでした。

浦は秋深い景色ですが、松の葉だけは神仏の誓いの恵みを顕すかのように、変わらぬ緑を湛えています。 杜の木蔭に月の明りは揺らめきますが、誓いを守るかのように白い参道をたどっていくと、松の木蔭に寄り添うように佇む女人を見つけました。 

女人はただ一本の松の木に限って、その蔭を清めています。 

忠岑は不審に思って「筥崎の松とは何れの木のことか」と問いますと、

「これこそが筥崎の松」と答えます。 

続いて「神功皇后が異国退治に出陣された折、ここに立ち寄られて『戒・定・恵』の三学の妙文を黄金(こがね)の箱に入れて、この松の下に埋められたことによるのです」と、謂れを物語り、この事を詠んだ和歌を引いた後、松蔭の塵を払い清めることは、煩悩の塵を祓うことと述べ、

忠岑に向かって、「戒・定・恵の三学の妙文を拝んでみたいと思いませんか」と尋ねました。 

忠岑は「拝みたいとは思いますが、私のような悟りに至らぬ者がそのように尊い妙文を、どうしてた易く拝むことができるでしょう。」と応えますと、

「心を清く保ったまま、この松蔭に座しなさい。」と女人は伝え、

「神の誓いは代(よ)を越えます。そなたの長年の信心に対して、その誓いをした神の御母である私が奇特を見せてあげましょう。半時ばかり待ちなさい。」と言い、松の蔭にかき消えて行きました。

期待を抱いて忠岑が待っていますと、風も唸る寅の刻となりました。

やがて剣を手にした出陣姿の神功皇后が現われ、箱の中から妙文を取り出して忠岑に渡します。

忠岑が妙文を拝んでいる間、皇后は神仏の功徳を説きながら唐扇を手に天女の舞を舞います。

そして忠岑が拝観を終えると、箱の中に妙文を戻して玉手箱を元の松蔭に収めるのでした。 

夜明けと共に風も治まり、跡には松蔭が残るだけでした。

  壬生 忠岑・・・平安中期の歌人、三十六歌仙の一人、

         紀 貫之らと共に「古今和歌集」を編集         

                      有明の つれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし

  八幡神社・・・筥崎宮(福岡市東区箱崎1-22-1)宇佐・岩清水・筥崎で三大八幡宮

          神功皇后が応神天皇ご出産の際、その御胎衣(おえな)(胎盤)を筥に入れて

                  地中に収められた。 そこへ印の松を植えたことにより、筥松のある岬と

          いうことから筥崎と云う。         

                  ※ 謡曲では世阿弥の演出により、箱の中身は経文に変えられています。 

   三学の妙文・・・戒学・定学・恵学の経文          

                   戒学 → 戒律 (小戒・中戒・大戒がある)          

                   定学 → 感覚・知覚器官の統御、生念と正知の探究          

                   恵学 → (慧学) 観智、意による神通力、神通の智慧、人の心を知る智慧

     神功皇后・・・仲哀天皇の皇后。

                   天皇崩御後、自ら兵を率いて朝鮮半島へ新羅征伐に出て、平定後、筑紫

                   で応神天皇を出産する。

 

この謡曲は世阿弥の作ですが、永らく演能が途絶えていたものを観世流宗家によって復曲され、2004年、筥崎宮にて奉納演能されました。  なお、謡曲の解説は原作を元にしています。

 

<作品によせて> 昨年、九州・筥崎宮にてこの「箱崎」は奉納演能されました。

NHKのBS放送等で放映されましたから、知っている方も多いことでしょう。

私自身も、その放映を見ていました。 

そして、その何とも言い難い、品格溢れる華やかさに魅了されました。 主人公(シテ)は神功皇后ですから、当然と云ってしまえばそれまでなのですが・・・。

是非、描いてみたいという衝動に駆られました。 

そのまま気持ちを暖めつつ、作品化する為に必要な資料を集める作業に入りました。 

特に苦労したのは、装束の意匠です。 

今回、新しく作られたものですから、過去にある柄行き(意匠)を参考に掘り起こすことが出来ず、また、装束展等で静止して間近で観覧できる訳でもなく、演能を見た時の記憶と、資料写真等をルーペで見たり、その画像を拡大したりしての解析作業とでも呼べるような積み重ねを続けて、何とか自分のものにする(写生しているだけではないのです)ことが出来ました。 

実際に制作に執りかかれるようになるまで、数ヶ月を要しました。

私の場合は、下絵が出来上がった時点で、もう構図が出来ている(作品として私の頭の中で完成している)訳ですから、本画を描くことは私にとって、その頭の中にある映像をカンバス上に二次元化する=写し取る作業のようなものです。 

ですから通常はこの作業は手作業の積み重ねであり、構想を練っている期間に比べて素早く終えることができるのですが、今回の箱崎は装束の柄が細かく、時間がいくらあっても足りないような感覚を覚えました。 同時に腱鞘炎になるのでは?という程の細かい筆遣いの連続でした。 

しかし、その効あって存在感のある、会心の作品に出来上がったと自負しています。 

この能面は、私のオリジナル(創作)です。 

資料はもちろん見ていますが、筆を執る際には何も見ません。 

面(おもて)を描くという作業は、絵の中の他の処を描くのとは全く違う感覚でもって臨んでいます。 面を描くということは作品に命を吹き込む行為です。 

自分の納得のいく面が描けたときは、爽快な気分で筆を置くことができます。

翁ならば翁に自分がなって(生りきる=気持ちを沿わせる)筆を執ります。 

今回は神功皇后というわけですから、歴史上の人物であると共に女神、それも色々な意味(神縁・信・美・心・行動力などでしょうか)で力強い女神像というものを、私なりに想念に描いていました。  そして、ただ々々、私の中で神功皇后と向き合い、その結果、描けた女神像です。

この面も非常に満足ゆく出来に上がっています。

会心の作となった「箱崎」は、直に私が懇意にしている方に観て頂きました。 

そして、今はその方の傍らにあります。

私がこの能に魅了されたとの同じく、その方はこの作品に魅了されたようです。                                                         2005年1月末日

 

神功皇后と云えば、当時同盟を結んでいた任那を救済する為の新羅征伐を行わんとして、亡き天皇の代わりに妊娠中の身でありながら朝鮮まで船団を率いて出掛けられた人です。 

結果は御神力の後押しもあって、無事戦功を建て、海上(瀬戸内)を通って凱旋された人です。

夫の仲哀天皇は神慮に従わなかった為、神の怒りをかって命を落としてしまったからです。 

皇后が帰られた時、大和では日嗣(継承)を巡って争いが勃発、皇后とその御子・応神天皇はクーデターの対象となっていました。 その情報を聞いた皇后は再び神慮を得んとして神様を奉り、そして無事、國を治めることができました。 

その時に奉じた神様は現在では立派な神社として残っています。 廣田神社・長田神社・住吉神社です。 廣田神社は天照大御神の荒御霊を祀っている神社ですが、そこは、私が今の家を建てるに際して、協力頂いた人の源たる社でした。 

その人へのお礼の気持ちを込めて、1999年春、「翁」の作品を奉納致しました。

当時、そこが神功皇后と所縁のある神社であることは知っていましたが、今回の筥崎宮からの繋がりがあるということは、このたび謡曲の背景を調べてみて、よく解った事柄です。

この作品を制作するに当たっては、その資料集めに骨を折りました。

永い期間演能されていなかったものですから、謡曲全集等の解説本などにその原文(謡い)が載っていないからです。  そこで、インターネットを駆使して探しました。 

この現代の利器を用いても、中々見つからず、一冊の能楽全集(古書)にこの謡いが出ていることまでは突き止めたのですが、肝心のその本がありません。 

知る限り、古書店のサイトで検索し、問い合わせをしましたが、在庫は見つかりませんでした。

ただ、ある個人の方がその全集をお持ちだということが判りました。(プログに掲載されていたのです) そして、その方に依頼してコピーを送って頂いた次第です。 

正にIT革命です。 数年前ならば、実現できなかったことが可能になり、私はその恩恵を享受しています。 この「箱崎」を描いた後、連作としてP10号作品を描きました。

この春の個展に出品します。 沢山の方々に観て頂ければ幸いです。

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