[物語のあらすじ]
諸国を回っている旅の僧が津ノ國の天王寺へ参詣しようと、淀川を舟で下り、江口の里へと着きました。
僧は里の男に『江口ノ君』の旧跡を尋ねて立ち寄ってみます。 そこは西行法師が一夜の宿を請うたものの、断られたという古事のある処です。 僧がその時に西行の詠んだ和歌 「 世の中の 厭(いと)ふまでこそかたからめ
仮の宿りを惜しむ君かな 」 を口ずさんでいると、
一人の女人が現れて僧を呼び止め、
「その歌をどのように思われているのか」と問い、
宿を断った真意を申し上げたいと云います。
女人は 「 世を厭ふ人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ 」 の返歌と
「決して、宿を貸すのを惜しんだのではありません。」と告げ、自分は江口ノ君の霊だと明かして黄昏の中へ消えて行きます。 僧は先の里の男から、江口ノ君が普賢菩薩となって顕現したという奇瑞を聞き、霊の供養を勧められます。
夜も更け僧が弔いを始めると、月の澄みわたった川面に舟を浮かべ、二人の遊女を供なった江口ノ君が現れました。 江口ノ君は遊女の境遇を儚い花や雪、雲に例え和歌を詠い、同じように儚い自分達の身を嘆き、棹ノ歌を詠いながら舟遊びを始めます。
川を渡る舟にこの世をわたる因縁を重ね合わせ、「前世の先も来世の先も知り得ず、前果に因って人間界や天上界に生まれることもある」と、世の無常と執着の罪を説き静かに舞を舞ってみせます。 江口ノ君は「煩悩を解脱した清らかな大海には欲の風は吹かず、迷いを起こす波も起きません。 迷いは心を現世に留めるから生じます。 心を留めなければ無常を嘆くこともないでしょう。」と仏道を説きます。
「仮の宿りに心を留むな とは悟りへ導くために諌めとして言った私です。 もうこれで帰ります。」と言い終えるやいなや江口ノ君は普賢菩薩へと姿を変え、乗っていた舟は白象(はくじょう)になりました。 そして光輝く白雲に包まれると西の空へと消えて行きました。
謡曲「江口」は 一夜の宿を拒んだ遊女と西行との和歌の贈答(次の二首)と、
遊女が普賢菩薩だったという説話を元に作られています。
世の中の 厭ふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな
世を嫌って俗事から離れた暮らしを送る(出家する)ことは難かしいことであろうが、 一夜の宿を貸すことぐらいは誰にでもできること、それさえ惜しんで(宿を)貸さない
とは、あなたはよほど志の無い方ですね
世を厭ふ人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ
俗世を嫌って出家した御方と伺っていましたから、このような仮の宿(俗)に執着は
なさらないように
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天王寺 … 大阪の四天王寺
江口の里 … 現在の大阪市東淀川区南江口あたりになり、淀川から神埼川に分かれる河口
瀬戸内や難波へはこの江口で舟を乗り継ぐ 往時は河港・宿駅として栄えた
江口ノ君 … 平 資盛 (すけもり) の娘・妙 (たえ) と謂われている
平家没落の後、乳母を頼って江口の里へ身を寄せるものの、不幸が重なり
遊女になったといわれる
妙が光相比丘尼として開創した寺、普賢院寂光寺は江口君堂と呼ばれている
ここだけが戦禍を免れ、地元では「江口ノ君のお陰」と信仰を集める
西行法師 … 桜にまつわる和歌で有名な平安歌人
1167年(仁庵2年)天王寺参詣への途中でにわか雨に遭遇し、江口ノ君に
宿を求めたが断られ、 和歌を詠んで贈ったところ江口ノ君から返歌が
あり、 とうとう和歌を楽しみながらその夜を明かしたとの逸話がある
棹ノ歌 … 舟歌
普賢菩薩 … 文殊菩薩とともに釈迦如来の脇士
法華経では女人成仏の証人とされ、仏像は女人のような御姿に描かれること
が多い 白い像に乗っている